紹介本 『世界がわかる理系の名著』/世界を変えた14冊

目次

世界がわかる理系の名著/鎌田 浩毅/ 文藝春秋

この お勧め本紹介blogを通じて本を読むことで色々な価値観を知る事で成長できることを伝えていきたいと思っています。

今回紹介する「世界がわかる理系の名著」はスーパー科学者たちが現代文明の基礎を築き新しい見方を与えたしるしです。

14冊の内容のエッセンスを現代の文脈で解説しています。理系的な考え方の根幹を知ることでめまぐるしく変化する現代の科学技術に振り回されることなく世界の基本構造を理解することに繋がると著者はいいます。

紹介の仕方は「書いた著者について」「こんなことが書いてある「その後の世界の変化」「エピソード」等となっています。

紹介本の紹介なので更に簡潔に紹介何人か紹介します。

ダーウィン 『種の起源』

書いた著者について チャールズ・ロバート・ダーウィン

  • 父親は有名な医者で、母親は陶磁器で有名なウェッジウッド一族で裕福で知的な家庭で育った。
  • 厳格な父親は法律家にしようと考えたが地道な学業が苦手で植物や昆虫採取に熱心な少年だった。
  • 医学の勉強を始めたが立ち会った手術から逃げ出し、道半ばで退学する。
  • 困り果てた父親がケンブリッジ大学に送り込み、博物学者ヘンスロー教授で出会う。
  • 生き物の野外採取に異常に興味を持ち熱心に博物学を学ぶ。
  • 卒業後英国海軍の測量艦ビーグル号に乗船、乗船中親友の書著「地質学原理」を隅々まで読むこむ。
  • この航海で南半球まで行きヨーロッパとは全く異なる動植物や地質を詳しく観察する。

こんなことが書いてある

  • 生物は絶え間なく繁殖を続けながら個体の数を増やしていく。
  • 増えすぎ奪い合い、生存競争がどの種にも起きる。
  • 生物を取り巻く環境の変化で生き延びるものと死に絶えるものに分かれる。
  • 新しい環境に合わせることに成功して個体は生き残りこのプロセスが何世代も続く。
  • 全体の配置が変化した様に見える「自然選択説」を提唱する。
  • 硬い樹木しかない島の適応したくちばしを持つ鳥が多くこれを「適者生存」と表現した。
  • 「自然界に存在する自然選択が生物進化の原理」と語る 

その後の世界の変化

  • 「種の起源」に書かれた仮設は一般市民には「優れたものは劣っているものを駆逐する」と受け取る。
  • キリスト教が全てを支配していた時代で共通の祖先から進化する考え方は激しい非難が巻き起こった。
  • 科学者の立場から養護する立場の人の努力の結果、進化論は次第に社会に普及していく。
  • 進化論は生物学のみならず、社会思想にまで大きな影響を及ぼす様になる。
  • 適者生存のプロセスには一部突然変異説など誤りも指摘されたが、根本的考えは間違っていない。 

エピソード

  • 「種の起源」の原稿に目を通した出版社は最初印刷をためらったらしい。
  • 会社の顧問弁護士の助言により出版され、初版は当初の倍以上の1250万部印刷された。
  • あまりに革新的な考えは当初専門家からも理解を得られないことはある。
  • 無理解に落ち込まず研究できたのは親しい友人科学者立達のサポートと助言により救われた。 

さわりピックアップ

生存競争は、あらゆる生物が高率で増加する傾向をもつことの不可避的な結果である。

すべての生物はその本来の寿命やのあいだに多数の卵あるいは種子を生じるものであるが、一生のある時期に、ある季節あるいはある年に、ほろびねばならない。

もしそうでなければ、幾何学的[等比数列的]増大の原則によって、その個体数はたちまち法外に増大し、どんな国でもそれを収容できなくなる。

「種の起源」(上)岩波文庫89ページ

ファーブル 「昆虫記」 

書いた著者について ジャン・アンリ・ファーブル

  • 南フランスの片田舎お貧しい農家の家に生まれ、生涯貧乏とともに生きた。
  • 生活難のため三歳のとき父方の祖父母に預けられ、そこで自然について自分の目で体験していく。
  • 貧しいながらも教育が大事と考える父親はかろうじてファーブルが教育を受ける機会を与えた。
  • 成績優秀で師範学校の給費生となり、卒業後教員となる。
  • 33歳で大学教授を勧められたが財産がなく断念、理系の入門書の執筆の僅かな印税で生計を立てる。
  • 「昆虫記」で有名なアルマスの地に腰を落ち着けたのは55歳の時である。
  • 56歳の時「昆虫記」第一巻を刊行、以後2,3年に一冊で出しつづけ最終巻十巻を83歳で刊行。 

こんなことが書いてある

  • 昆虫に関する学術論文でなく、昆虫の生の動態を描いている。
  • 書かれた内容の出典がよそにない、オリジナルでありながら、万人に広く読まれる本だった。
  • 本好きが知的欲求を満たすために読む大人の読み物で最先端話題が盛り込まれた本を目指した。
  • 文理融合型の書物の先駆け
  • 初めて出会う生き物であっても、親やすく上手に描写ている

その後の世界の変化

  • 昆虫記は本国フランスでは売れ行きは良くなかった。フランスで昆虫は悪魔がつくと思われていた。
  • フランス人は犬より小さい生き物に目に入らない特徴があり、昆虫に馴染みがなかった。
  • 昆虫記の刊行から100年後、1996年に昆虫を扱った映画「ミクロコスモス」が大ヒットする。
  • 映画の大ヒット4年後、生地サン・レオンで昆虫のテーマパーク「ミクロポリス」が完成 

エピソード

  • 昆虫記が当初高い評価を受けなかたのは、ファーブルが進化論を受け入れなかったことも起因する。
  • 難しい用語を使わず、平易な文書が低い評価の原因でもあった。

さわりピックアップ

9月の初旬には、しばらくまえから孵っているドクグモの子どもたちは成熟して、外へ出られるほどになってくる。

子供たちは全部が一時に卵の袋から外に出る。そしてたちまち母グモの背中によじのぼる。

子グモたちはお互いぎっしり寄りあって、数によっては二重三重の層になって母グモの背中全体を占領していまう。

これから、母グモは7ヶ月のあいだ、夜となく昼となく、子どものむれをおんぶして歩き回ることになるのだ。

子どもを着物みたいに着ているこのドクグモの姿ほど、家族団らんのお手本になる光景は、どこにもみられないだろう。

ファーブル昆虫記(下)173ページ

メンデル 「雑種植物の研究」

書いた著者について グレゴール・ヨハン・メンデル

  • オーストリアの小さな村で父の代で豊かな農園を営む家系に生まれた。
  • 母親は優れた園芸栽培家を輩出した家系の娘である。
  • 母方の叔父は大変教育熱心でメンデルの学びを陰となり日向となり支えていた。
  • 子供の頃からメンデルは父の果樹園で植物の改良を手伝った。
  • 父親は農園経営に行き詰まり借金を抱える身とな李、その後病魔が父を襲う。
  • 父の代わりに農園を継ぐことを望まれたが向学心の強い彼は拒み修道院の修道士となる。
  • 修道院院長は学問に関心があり寛大な院長の導きにより、ウィーン大学へ留学することとなる。
  • エンドウを使った遺伝の研究を開始し他のは留学後修道院に戻ってからである。
  • 丁寧に交雑を繰り返し7年間渡り実験し、遺伝現象の法則性と遺伝物質の存在を発見する。

こんなことが書いてある

  • 研究を始める前から明確な目標設定をしていてる。
  • 目標は親から子へ性質がどう受け継がれるか科学的に答えること。
  • 黒い目と青い目の両親からどちらの目の色となるか、異なる性質「形質」が伝えられる要素を研究。
  • 「優性」と「劣性」という言葉で形質が現れるか抑制されるかを研究。
  • 二代目で出なかった形質が三代目で現れ、最終的に三対一となることを実験と簡単な記号で説明した。

その後の世界の変化

  • 遺伝学として発展する学問に、数学的基盤を与えた。
  • 彼の論文は生物学の主な雑誌に投稿しなかった為、メンデルの死後16年も埋もれていた。
  • メンデルが修道士でアカデミアの学者出なかったことも原因の一つである。
  • 記述内容が当時の生物学者たちの理解を超えていたことも注目されなかった原因である。
  • 研究宣伝やアウトリーチ(啓発・教育活動)に関心がなく今でいう純粋なオタク研究者だった。
  • 生前評価されなかった研究成果は死後三人の科学者が全く別の場所で証明して行く。
  • 三人は自分たちの独自の発見の後、その証明をメンデルの論文に従って数学的解釈で説明して行く。
  • 形質が植物の交配によって混合されず「要素」が代々受け継がれる進化論の問題点の回答を与えた。
  • ダーウィンの「自然選択説」の裏付けに「メンデルの法則」が代替案を提供することになる。
  • メンデルが唱えた遺伝の「要素」の解を求めて多くの科学者が後にしのぎを削ることとなる。
  • その後細胞の中の染色体の挙動が遺伝子そのものである考えたのはウォルター・サットンである。
  • ヴォルター・フレミングによる染色体の発見を受け継いだ成果である。
  • トマス・モーガンはショウジョウバエの染色体を調べ遺伝子のありかを表す染色体地図を作成した。
  • 現代のヒトのゲノムの解明はメンデルの実験結果が脈々と受け継がれた結果である。

さわりピックアップ

雑種になると隠れてしまう形質を劣性(recessiv)と呼ぶことにする。”recessiv”という表現が選ばれた理由は、その名で呼ばれる形質が雑種で後退するまたはまったく消滅するけれども、後に示されるように、変わらずに、その子孫にふたたび現れてくるからである。

「雑種植物の研究」19~20ページ

ワトソン 「二重らせん」

書いた著者について ジェームス・デューイ・ワトソン

  • 知的な両親のもとにシカゴで生まれた。父の書斎には数千冊の書物があったいう。
  • 好奇心旺盛の子どもワトソンの「なぜ?」に答える為先生は自宅で調べものをしたエピソードが残る。
  • 15歳という若年でシカゴ大学のとびきり優秀な生徒の為に作られた特別過程に入学。
  • シカゴ大学で鳥類学に興味を持つ
  • 大学時代その後の人生を決める本「生命とは何か?物理的にみた生細胞」に出会う。
  • 生命の秘密を解き明かす研究に惹きつけられ、遺伝学を学ぶインディアナ大学大学院に進む。
  • デンマークに渡りコペンハーゲン大学のカルチャー教授のもとで研究し染色体に含まれるDNAに注目。
  • その後ケンブリッジ大学に移りフランシス・クリックとDNAの構造を検討。
  • 共同研究の結果24歳でDNAの持つ二重らせん構造を発表。

こんなことが書いてある

  • 1953年科学の世界で最も権威を持つ「ネイチャー」誌に二重らせん構造が掲載された。
  • 二重らせんとは、二本の曲線がらせん状にからまった構造をいう。
  • DNAの持つ二重らせんは右巻きの立体構造で右方向にまわりながら登っていく階段のイメージである。
  • この発見の顛末をドキュメンタリーとして残すためノーベル生物学・医学賞受賞6年後に本書を出す。
  • 世界的発見をめぐる激烈な先陣争いの様子が赤裸々に描かれている。
  • 生物学に革命をもたらした結果が明らかになる展開がエキサイティングである。

その後の世界の変化

  • 生物が無生物と区別される上でもっとも基本的な遺伝の情報伝達現象をあからかにしたこととなる。
  • 当時の生物学で未解決の問題の中で一番重要なテーマだった。
  • 二重らせん構造の発見は半世紀が経った2003年に人間の全遺伝子情報の解読に成功した。
  • 生物に関する研究の進展だけでなく、医学や治療に関わる幅広い分野で新しい世界が拓けた。

さわりピックアップ

当時DNAはナゾの物質であり、誰かにとらえられるのを待っていた。

だれがそれを手に入れるか、またわれわれがなかばひそかに信じていたように、DNAがすばらしいものだとわかったとしても、その仕事をした人が報いされるかどうかなどは、もちろん一人も知らなかたった。

だが、その先陣争いも、いまは終わりをつげている。勝利者のひとりとして、私はその間の事情が並みたいていのものではなかったこと、もちろん新聞の報道とはぜんぜんちがっていたことを知っている。

二重らせん16ページ

まとめ

今回は本書における第1章生命の世界を中心に紹介しました。文科系の私にとって一番わかりやすく、面白いと感じたからです。

日本の大学受験で理科系と文科系に分かれて試験を行うため、文系人は科学が苦手か無頓着な人が多い様に思います。

署名な科学史家村上陽一郎氏はこの状況を危惧して「科学・技術の二〇〇年をたどりなおす」を著しています。

現代は科学が好きだろうと嫌いだろうと科学が産み出した結果に否応なしに振り回される時代ですので今回紹介した本などを参考に興味がわければと思います。

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